宮司の挨拶

御文庫・蓼倉文庫

R3-02-15 / 260話

 御文庫が完成しました。平成三十年の大阪北部地震により損壊した御文庫の再建です。この事業は急遽、第三十四回・式年遷宮事業へ追加して復旧工事をすすめてきました。

 『小右記』という平安時代のお公家さん藤原実資の日記、天元五年(九八二)四月二十五日のくだりに「御社政所」とあるのは、当時の下鴨神社組織の中枢機能を果たす役所のことです。大きく分けて政所・学問所・役所、公文所とに分類されていました。

 政所は、朝廷、賀茂斎院庁、四季の勅祭、全国各地の賀茂・鴨社領所在地の国庁との関係機関。学問所は、式年遷宮事業に関わる全ての業務と同時に神工、壁工、竹工、金工、檜皮工、絵所、書所等々の職能集団であり後継者育成の場として、さらに全国賀茂社神官の教育機関でありました。特に公文所の絵所は、行幸や遷宮などの記録、書所では社有の貴重品や典籍類を保管するなどの機能を果たしていたため、御本宮まぢかに御文庫と呼ばれていた三棟の脚高蔵がありました。

 ところが、文明二年(一四七〇)六月十四日、応仁・文明の乱の兵火によって社殿、境内糺の森の七割が焼亡したほか、御文庫等の貴重品、典籍類のほとんどが略奪されてしまいました。最近、「三十六歌仙」の展覧会が評判となりましたが、元をただせばこの御文庫にあったものです。ほかにも文化財となっている典籍、文物類の多くも同様です。「林家本」とか、「いてふ本」などと呼ばれているのがそれです。以降は、制度を改め、御文庫には、式年遷宮の御神宝、威儀物、勅祭等に関わる文物などを収め、貴重品等は、公文所を担当する社家が管理することとなりました。ところが、明治初年、神社制度の改革があり、その時期に流出した物も多く、反省の結果今は、宗教法人の所有として保存し活用しています。

 「蓼倉文庫」については、江戸時代後期の書家・貫名海屋は、学問所の教授として氏人組織の一員でした。特に、漢書一一,二五二巻、唐碑帖五十八種の蔵書を学問所へ寄贈され、先生の庵の所在地、山城国愛宕郡蓼倉郷北浦にちなんで北浦文庫と呼ばれていました。現在の西駐車場は、かつてお茶畑でしたが、その北角に所在しました。寄贈後「蓼倉文庫」と称するようになりました。

今回、四棟を纏めて一棟として保存管理をすることとなりました。