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世界遺産 下鴨神社(しもがもじんじゃ)賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)

下鴨神社について

正式名称  賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。
賀茂川と高野川が合流する場所に鎮座します。

賀茂川の下流にあり、古くから賀茂御祖神社を表す際は「鴨」の文字が使用されたことから、

下鴨神社(しもがもじんじゃ)とも呼ばれます。
京都を拓かれた神様として信仰され、平安京遷都以降は国家鎮護の神社として、皇室や朝廷からも篤い崇敬を受けました。
現在では国宝の本殿2棟をはじめとした多くの文化財や、太古からの植生を残す「糺の森」など、古代の息吹きを今に伝える京都の古社です。
 

御祭神と御神徳

御祭神と御神徳

正式な名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」。賀茂一族の祖神をお祀りすることから、このように呼ばれます。

京都は鴨川を中心に町づくりがなされておりますが、その上流である賀茂川と高野川の合流地点に祀られます。賀茂川の上流に鎮座する上賀茂神社と同様に、下流にまつられているところから「下鴨神社(しもがもじんじゃ)」とも呼ばれます。

ご祭神

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿

玉依媛命      (たまよりひめのみこと)     東殿

ご神徳

御神徳

賀茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです。山城の国一宮として京都の守護神としてまつられています。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。 山城国『風土記』などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床におかれたところ、矢は美しい男神になられ、結婚された。
そしてお子をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、縁結、子宝、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです。

賀茂建角身命・八咫烏伝承

当神社の正確な創祀は不明ですが、崇神天皇の7年(BC90)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があるため、それ以前の古い時代からお祀りされていたと考えられます。

近年の糺の森周辺の発掘調査では古代の土器や弥生時代の住居跡が発掘され、古代からの信仰を裏付けています。。

『続日本紀』の文武天皇二年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があり、このことからも奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。

 

平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして賀茂別雷神社とともに信仰を受けておりました。式年遷宮や斎王の制度などが定められたことからも、一線を画した特別な神社として認識されていたことが伺い知れます。『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場いたしますように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。

 

平安時代末期になりますと全国に60余箇所もの荘園、御廚が寄進され神社を支えました。 鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えていきますが、代わって国民の信仰が神社を支えていくようになりました。

当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などでは、そのころの様子がうたわれております。

 

国の重要な出来事には、かならずご祈願が行われました。 江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せられました。

 

明治初年、全国の神社の代表として、官幣大社の首位におかれ、今日まで国と国民のための御祈願を日々行っております。

創祀

式年遷宮について

式年遷宮とは?

式年遷宮とは、一定年限で社殿を造り替えることです。

平安時代中ごろ「鴨社正遷宮也、当社廿年一度…定例也」と史書『百錬抄』に記され、長元9年(1036)を第1回として式年遷宮の制度が確立しました。しかし式年の制は在るべき姿ではありましたが戦乱や飢饉・災害によって30年、50年に及ぶこともありました。

しかし、中世から近世、そして近代、現代と時代は変わろうとも、国難を乗り越え常に支障なきよう社殿はお守りされてきました。

いつも「神さまに御不自由をかけまい」とするその思いを制度化したのが、今の21年一度の式年遷宮です。

式年遷宮について

下鴨神社の式年遷宮

賀茂御祖神社の創始は古く、太古に遡ります。神社境内の糺の森から古代の祭祀遺跡や旧境内から集落跡などが発掘されました。『日本書記」神武天皇2年(BC658)2月の条に御祭神の伝承がみられ、綏靖天皇の御代(BC580頃)に、現在の御蔭祭の始源である御生神事がはじまったとの所伝があります。

社殿が造営された最初の記録は、崇神天皇の7年(BC90)瑞垣を造替したとの記述です。それ以降、奈良時代以前に幾度も社殿が造替されたとの記録がみられ、白鳳6年(677)には山背国司に命じられて造営が行われ、この時から板葺や茅葺の社殿を桧皮葺と瓦葺にかえたとあります。

欽明天皇5年(544年)にはじまった賀茂祭(京都の3大祭の1つ、通称葵祭)は、当時まつりといえば賀茂祭をさしたほど隆盛を極めました。

平安遷都(794)以降は皇都である京都の総鎮護として山城國一の宮となり、皇女が賀茂斎王として神社に奉仕する賀茂斎院の制度が定められるなど朝廷の尊崇厚く、国家国民の安泰を祈願する神社でありました。このことは明治以降も変わらず、官幣大社の筆頭として全国の神社の首位におかれ、このような歴史によって社殿と境内が国指定の文化財となり、平成6年(1994)世界の文化財として世界文化遺産に登録されています。現在では本殿2棟は国宝、社殿53棟は重要文化財といずれも日本の宝として登録されており、全てを新しくすることができません。本来の式年遷宮は、ご神体を除く全ての建物や調度品を新しくする宮移しですが、現在は傷んだところの修理を基本方針としており、21年ごとに修理のため宮移しをするのが現在の式年遷宮です。

なぜ21年に一度?

平安時代は造営で一番恵まれた時代でした。恒武天皇が人心を一新するため平安遷都を断行されました。賀茂両社は元々地方の社でしたが、王城鎮護の社として山城國の人々はもちろん、行幸、関白賀茂詣など受けるようになり、これに見合った社として規模が大きくなりました。さらに立派に、常に新しく…。古代建築の最高の素材とされる桧皮は20年あまり、白木も朽損せずきれいなのは同じくらいです。神宝、神服などの技術伝承にも適当と思われます。

具体的に何を行うか?

まず桧皮葺(ひわだぶき)の屋根葺き替えです。70棟に及ぶ屋根の葺き替えの桧皮は膨大な量になります。また寿命が3~40年ですから、未来永劫にわたって葺き替えは無くならないことになります。銅版あるいは新素材で葺くことも可能です。しかし、伝統建築の最高の素材として、古来より神社をはじめとする建物に用いてきました。ほか社殿の飾り金具、漆の傷んだ部分、はげた彩色部分の修理、たとえば神様を守護する獅子、狛犬の修理などです。このほか神様の御生活品や衣装・装束(これらを御神服・御神宝と称します)も修理、もしくは一部が新調されます。

シンボルマーク

気の遠くなるような時間の集積からなる糺の森。古代からの数多の神々・精霊の存在を感じる、たおやかで、柔らかにして、凛とした空気感。鴨川と、糺の森を清らかに流れる小川。氏人達をはじめ、この土地を訪れ、神游の庭で神々と出会った数多の人々のエネルギーの痕跡…

豊かな自然に囲まれた賀茂御祖神社は、生命力=“いのち”を直接的かつ身近に感じる事のできる場です。鴨神道独自の信仰として賀茂御祖神社に伝承される、あらゆる生命を生み出す力、生命の根源のあらわれである“御生(みあれ)”の思想において、社殿の老朽化は穢れを意味します。

それらを新しくすることで神の生命力を活性化する祭儀である式年遷宮をシンボルマーク化するにあたり、よどみなく流れる生命力=“いのち”をテーマとし、それをビジュアル化する過程において、世界文化遺産である賀茂御祖神社の式年遷宮に相応しい品格を感じさせると同時に、賀茂社の特徴である有機的で柔らかな生命感・空気感を表現することを目指しました。

森羅万象、全ての生命を生み出す力“御生”社殿を新しく、清らかにすることで神の力をよみがえらせ活性化する式年遷宮。

このキャッチフレーズは、“御生”の思想と式年遷宮の意義を、平易な言葉でシンプルに表現しています。ひらがなのみで表現することによって、見た目にも、柔らかく親しみやすいフレーズになっています。

式年遷宮奉祝事業について

式年遷宮奉祝パレード 平成26年4月27日

式年遷宮奉祝パレード 平成26年4月27日
第34回式年遷宮をあと1年となった4月27日、「式年遷宮」を奉祝するパレードを行いました。京都府立北稜高校のマーチングバンドが演奏する行進曲に乗せて儀装馬車、騎馬隊、そして提灯を手にした市民、龍谷大学のよさこい踊り総勢500名が都大路を練り歩き、1年後に迫った式年遷宮を伝え、奉祝気分を盛り上げました。

式年遷宮奉祝パレード
お白石持神事

お白石持神事

「お白石」は神社本殿の御垣内に敷き詰められている白く清らかな石のこと。
遷宮ごとにこの石も新しく敷き詰め直すのが伝統です。その石を禁足の場である本殿御垣内に敷き詰める行事を「お白石持神事」と呼びます。来年4月に正遷宮を控えた下鴨神社では、本殿修復のため5万個にも及ぶ御垣内の白石を拾い集めて運び出す「石拾神事」をすでに昨年の6月に行いましたが「お白石持神事」はそれを元にお戻しする神事です。お祓いを済ませた白石を積み上げた糺の森の石置き場から白布に包んで御本殿前にお納めし、21年後の次の遷宮まで本殿御垣内に敷き詰められ、神域を清めます。この神事には多くの方々にご奉仕いただき、次回は11月の予定です。21年に一度のこの機会に、是非ご奉賛いただきますよう、お願いいたします。

お白石持神事


「お白石」は神社本殿の御垣内に敷き詰められている白く清らかな石のこと。

遷宮ごとにこの石も新しく敷き詰め直すのが伝統です。その石を禁足の場である本殿御垣内に敷き詰める行事を「お白石持神事」と呼びます。正遷宮を控えた下鴨神社では、本殿修復のため5万個にも及ぶ御垣内の白石を拾い集めて運び出す「石拾神事」を行い、「お白石持神事」ではそれを元にお戻しします。お祓いを済ませた白石を積み上げた糺の森の石置き場から白布に包んで御本殿前にお納めし、21年後の次の遷宮まで本殿御垣内に敷き詰められ、神域を清めます。この神事には多くの方々にご奉仕いただきました。

賀茂建角身命は、古代の京都を拓かれた神さまです。また、金鵄八咫烏に化身し神武天皇を勝利に導き、日本の建国に力を尽くした神さまでもあります。

京都の守護神として、また勝利や物事の始まりの守護、導きの神として古くから崇敬されています

玉依媛命は、賀茂建角身命の御子神です。山城国『風土記』などには、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われたところ、ご懐妊され、賀茂別雷大神をお産みになったと伝えられています。

古くから縁結び、妊娠・出産・子育てなど、女性守護の神さまとして信仰されています。

平安京が造営されるにあたっては、まず当神社に成功のご祈願が行われました。

以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。 

当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、古くからの文化を今に残す、文化を守る神さまとしても信仰されております。

ラッピングバスの運行
平成26年4月27日より平成27年4月26日逸

平成26年4月27日より平成27年4月26日逸


平成26年4月27日より平成27年4月26日逸

第34回式年遷宮のことを広く一般の方々にも知っていただくため、そしてその奉祝の気運を盛り上げるため、ラッピングバス(市バスのボディーを媒体として告知内容を描いたバス)を運行しました。「下鴨神社の式年遷宮」をお知らせするバスが市内を巡りました。

下鴨神社の式年遷宮ラッピングバス
蹴鞠奉納とW杯必勝祈願
W杯必勝祈願の1000個の「カチマル守り」

蹴鞠奉納とW杯必勝祈願

去る5月31日、6月にブラジルで開催されたW杯(サッカー・ワールドカップ)での日本代表の必勝祈願のため、元日本代表の中田英寿さんが蹴鞠装束に烏帽子姿で威儀を正して下鴨神社を参拝。神前で日本代表の必勝祈願をした後、南鳥居前で奉納された蹴鞠を観覧しました。

下鴨神社で五月に蹴鞠会が開催されたのは異例のことですが、中田さんが大会期間中にサンパウロで開く「nakata.netCafe 2014」にお祀りする下鴨神社の神棚と鹿皮で作られた蹴鞠の鞠、W杯必勝祈願の1000個の「カチマル守り」、応援メッセージが書かれた横断幕を中田さんに託したもの。
保存会会長から中田さんに鞠が手渡された時、この日招待された氏子地域のサッカー少年たちから「ヒデさん、蹴ってください!」の声。「僕は蹴鞠は素人ですから…」と、中田さんは少年たちに笑顔で答えます。

下鴨神社の祭神・賀茂建角身命は「八咫烏」に化身して神武天皇の東征の道案内をしたことで知られる大神で、八咫烏は三本の足をもった異能の鳥。日本サッカー協会のマークにもなっています。その八咫烏が刺繍された「必勝祈願・カチマル守り」をサポーターたち一人ひとりの思いと共に応援してほしいとの願いをこめたこの下鴨神社のお守りがサンパウロのナカタカフェでサポーターたちに配られました。

蹴鞠奉納とW杯必勝祈願

ブラジルで開催されたW杯(サッカー・ワールドカップ)での日本代表の必勝祈願のため、元日本代表の中田英寿さんが蹴鞠装束に烏帽子姿で威儀を正して下鴨神社を参拝。神前で日本代表の必勝祈願をした後、南鳥居前で奉納された蹴鞠を観覧しました。
下鴨神社で5月に蹴鞠会が開催されたのは異例のことですが、中田さんが大会期間中にサンパウロで開く「nakata.netCafe 2014」にお祀りする下鴨神社の神棚と鹿皮で作られた蹴鞠の鞠、W杯必勝祈願の1000個の「カチマル守り」、応援メッセージが書かれた横断幕を中田さんに託しました。
保存会会長から中田さんに鞠が手渡された時、この日招待された氏子地域のサッカー少年たちから「ヒデさん、蹴ってください!」の声。「蹴鞠は素人ですから…」と、中田さんは少年たちに笑顔で答えます。

蹴鞠奉納とW杯必勝祈願

神話・伝承

『古事記』是(ここ)に亦、高木大神の命以ちて覚(さと)し白(まを)しけらく、「天つ神の御子を此れより奥つ方に莫(な)入り幸(い)でまさしめそ。荒ぶる神甚多(いとさは)なり。

今、天(あま)より八咫烏(やたからす)を遺(つか)はさむ。故、其の八咫烏引道(みちひ)きてむ。其の立たむ後(あと)より幸行(い)でますべし。」とまをしたまひき。

『日本書紀』既(すで)にして皇師(みいくさ)、中州(うちつくに)に趣かむとす。

而るを山の中嶮絶(さが)しくして、復行(またい)くべき路無し。乃ち棲遑(しじま)ひて其の跋(ふ)み渉(ゆ)かむ所を知らず。時に夢みらく、天照大神(あまてらすおほみかみ)、天皇に訓(をし)へまつりて日(のたま)はく、「あれ今頭八咫烏を遺す。以て嚮導者(くにのみちびき)としたまへ」とのたまふ。

果して頭八咫烏有りて、空より翔(と)び降(くだ)る。天皇の日はく、「此の烏の来ること、自づからに祥(よ)き夢に叶へり。大きなるかな、赫(さかり)なるかな。我が皇祖天照大神、以て基業(あまつひつぎ)を助け成さむと欲せるか」とのたまふ。

伴信友『瀬見小河』一之巻高木大神と申は、高御産巣日神の又の御名なり、八咫烏すなはち建角身命なり、(略)、書紀に天照大神、古事記に高木神(高御産日神の又の御名)とあるは、互に一方を語り伝へたるものにして、まことは天照大御神、高御産巣日神の御慮もて、神産巣日神の孫(みひこ)の建角身命を、豫て天降し置て、(高御産巣日神と神産巣日神とは、相偶(あひたぐひ)ませるがごとく、いとも奇(くす)しき御間(みなか)に坐ますにおもひ合せ奉るべし、かくて此二神の、建角身命の御祖に系りて、きこえ給へる氏々あり、因に下に拳ぐるをみて、それをもおもひ合せ奉るべし)供奉(つかへまつて)せ給へる由を、天皇の御夢に告覚(つけさと)し給へりしなり。

「尋常小学読本」巻五(二年生用)日本ノ一バンハジメノ

天皇ヲ神武天皇ト申シ上ゲマス。コノ天皇ガワルモノドモヲ御セイバツニナツタ時、オトホリスヂノミチガケハシクテ、オコマリノコトガゴザイマシタ。ソノ時ヤタガラストイフ烏ガ出テ来テ、オサキニ立ツテ、ヨイミチノ方ヘ御アンナイ申シ上ゲマシタ。又アル時ドコカラトモナク一羽ノ金色ノトビガトンデ来テ、オ弓ノサキニトマリマシタ。ソノ光ガキラキラトシテ、ワルモノドモハ目ヲアケテイルコトガデキマセン。ソノ光ニオソレテ、皆ニゲテ行キマシタ。
天皇ハ國ノ中ノワルドモヲノコラズオタヒラゲニナツテ、天皇ノオクライニオツキニナリマシタ。ソノ日ハ二月十一日ニアタリマスカラ、コノ日ヲキゲンセツト申シテ、毎年オイハヒヲイタスノデゴザイマス。

賀茂建角身命・八咫烏伝承

『続日本紀』風土記逸文 山城國 賀茂社山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。可茂と稱ふは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、神倭石余比古(かむやまといはれひこ)の御前に立ちまして、山代河の随(まにま)に下りまして、葛野河と賀茂河との合ふ所に至りまし、賀茂川を見迎(みはる)かして、言(の)りたまひしく、「狭小くあれども、石川の清川なり」とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。爾(そ)の時より、名づけて賀茂と曰ふ。

賀茂建角身命、丹波の國の神野の神伊可古夜日女にみ娶(あ)ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。
玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなは)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)、建角身命、八尋屋を造り、八戸(やと)の扉を堅(た)て、八腹の酒を醸(か)みて、神集へ集へて、七日七夜楽遊したまひて、然して子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、やがて酒杯(さかずき)を挙(ささ)げて、天(さき)に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿(うが)ちて天に升(のぼ)りき。乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづ)く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。

可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉の里の三井の社に坐す。 伴信友『瀬見小河』二之巻 丹塗神矢の事丹塗矢云々、逐感孕生男子とある丹塗矢は、大仙咋神の玉依日賣に婚(アヒ)給はむ料(タメ)に、神霊を憑給へる物實なり、其は古事記に大仙咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之日枝山、亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也、(用字は桁字としてよむべからず、其説は下に云ふべし)と見えて、此鳴鏑神者とは、かの云々の時の鳴鏑の神矢なり、其を大仙咋神の霊形として松尾に祀れる由を、因にここに挙げたるなり、(但し玉依日賣に婚給へる事を語はで、ただ鳴鏑神者也とあるは、うちつけなるここちす、もしくは阿禮か遺れて誦み脱せる事のありしにてやあらむ、)
 

玉依媛命・丹塗の矢伝承

賀茂建角身命・八咫烏伝承

歴史

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