宮司の挨拶

後西天皇宸翰について

R5-05-06 / 277話

後西天皇宸翰 題しらず

 ちはやぶるかものう月になりにけり

いざうちむれてあふひかざさむ

 この和歌は『新勅撰和歌集』巻第三夏歌 一四一番

 『歌枕名寄』巻第一 賀茂篇 六九番

からです。ちょうど、いま時分のお歌です。お歌の意は、「賀茂神社の葵のお祭の四月になった さァ みんな葵をかざし つれだって おまいりしよう」と詠まれています。ところが、応仁・文明の乱の最中洛中の戦闘と混乱を避けて夜中に社頭へ参進するなど、いよいよ行粧が困難となり、遂に永正十四年(一五一七)四月の祭より勅使参向の行粧は中絶しました。再興になったのは、元禄七年(一六九四)四月、東山天皇(一六八七~一七〇九)のときです。後西天皇(一六五五~一六六三)は、東山天皇より三代前の天皇さまで、まだ行粧は再興されていません。ただし、行粧はなくとも賀茂の祭は、神社においておこなわれていました。

 お歌は、鎌倉時代はじめごろ、承久の乱前後のころ、後堀河天皇(一二二一~一二三二)の命により藤原定家が撰進した『新勅撰和歌集』に収載された和歌です。その頃の賀茂のまつりはひろく知られていました。紀貫之のお歌に「人もみなかつらかざしてちはやふる神のみあれにあふひなりけり」(貫之集・一三〇)とも詠まれています。祭の行粧は都大路をはなやかに練っていました。そのお歌を染筆されたものと思われます。

 しかし、その背景には弐百年ちかく長く途絶えていた葵祭の復活を要望されていたことがうかがえます。宮中では、野々宮定基大納言、鴨社にあっては、官制禰宜梨木祐之を中心に賀茂祭の故実や有職を調べ始められられたと思われます。