宮司の挨拶

今年の葵祭―3   前儀―御蔭祭の「みあれ引き」

R3-06-30 / 267話

 鴨の祭の申の日、みあれ引く 永観元年(九八三) 源 順

わが引かむ みあれにつけて 祈ること 

なるなる鈴も なず聞こゆなり

            『三十六歌仙伝』

 頭書の和歌は、平安時代の歌人の源 順(みなもとのしたがう)の歌です。当時の御蔭祭は、葵祭の一環と考えられており、みあれ神事と呼ばれていました。午の日が、みあれ神事。申の日が、行幸式日、関白賀茂詣、山城国司の賀茂祭の日。酉の日が、賀茂祭(かもまつり)でした。どのお祭にお参りしても「みあれ参り」あるいは、「あれ参り」と呼ばれていました。『源氏物語』藤の裏葉、の巻に「みあれに詣で給ふとて」とあるように桂と葵をかざして鴨のお社へお参りすることが慣わしとなっていました。

 元禄七年(一六九四)四月、みあれ神事が御蔭祭として行粧が御再興になったときの権禰宜相光編纂『御祭記』に貞和四年(一三四八)ごろの「御生曳」(みあれひき)の資料と記録を収載しています。現在の古馬塲の切芝から明け橋、南口鳥居、楼門、中門、幣殿唐戸と神馬の御祭神を「御生曳き」と称して延道の図を表しています。

二筋にあれ綱を分け、右を禰宜の祐長、左に祝の祐貫の名があります。続いて、左に社司、所司、別当、氏人、当番。右側には、所司、出司、

別当、氏人、当番と二列に分かれてあれ綱を曳く図が示しています。

この資料は、貞和四年、宮中の賀茂伝奏という役所へ提出した文書の控えです。最近、東山御文庫調査の節、当時提出された原本が発見された、という文書です。

 元禄七年四月十八日、神幸列が再興になったときにこの資料を基にみあれ曳きが御再興になったと思われます。

 残念ながら、本年はコロナ禍により略儀でした。