宮司の挨拶

鴨社資料を読む 6      

R2-01-20 / 253話

―働き方改革とか

 このところ、よく耳にする詞です。神社の社会にもその制度が様々な面に及び影響しています。

古い時代の下鴨神社は、何をどうしていたのだろうか、と資料をあれこれみてみました。

 日本の律令制度が成立し国家として成り立ったのは、耕地を国が所有し口分田として民衆が公民となり公田を耕作する社会が定着したことによると思われます。

 下鴨神社の場合は、『本朝月令』等によると、天武天皇六年(六七七)二月四日、社殿の造替をはじめ祭事、神職の補任等、すべての面で国家の祭祀をおこなう神社として官営化がすすめられました。これにより、大きく働き方の基本が変りました。その一方で従来のまま氏神の祭祀をおこなう氏族の祖先神をお祭するという祭祀も温存され独自の制度を継承するという二重構造の神社となりました。

 承和十一年(八四四)十二月二十日付、『太政官符』により、下鴨神社四至がきめられて以来、四至内の領民は、神人、沙汰人、刀禰の制度を組織にて一箇月ごとに御本宮域に設けられた刀禰屋敷に勤務し神社の管理運営にあたるほか、地域の統治にもあたっていました。

 古い『御蔭祭絵巻』をみると、お祭に携わる人たちとともに供祭人として行粧に参加して行列の重要な部分を占めていまました。それには、消防隊をはじめ、治安を守る警蹕(けいひつ)、神人(じんにん)街の清掃にも従事、医療に携わっていた人々、食品を商う人々等々、地域を挙げて行粧に参加するという平安時代のお祭の姿を描いています。参加することが公の仕事であったわけです。その公のなかに神社のことが含まれていました。