宮司の挨拶

鴨社 神宮寺

H30-06-07 / 233話

鴨社神宮寺の旧跡の発掘学術調査がほぼ終了しましたので本堂基壇の位置を特定できるように整備いたしました。下鴨神社の神宮寺の概要を記しておきます。

由緒 『正倉院文書』天平六年(735)の史料に「鴨県主黒人」とあって、鴨社と仏教との関わり初めた記述がみられます。

 『社記』には、「弘仁元年(810)、神宮寺造立せられる。」とあります。ちょうど、長岡京から遷都(『続日本紀』)があり、はじめて行幸親齋(『日本後紀』)をされ、賀茂斎院の制(『一代要記』)を設けられるなど官制神社として整えられるなかであり、承和十一年(844)十一月四日付け『太政官符』(『類従三代格』)には、「神域、殿舎、神舘、神宮寺などの修造」に収納物を充てるようにとあります。また史料に度々登場し始めるのは、『小右記』寛弘二年(1005)四月廿日のくだりの「賀茂下御社神宮寺是例也」からです。

堂塔伽藍 寺内の堂塔伽藍を『鴨社遷宮記』などの記録でみると「神宮寺・本尊 十一面観世音。不動尊立像。愛染明王座像。庚申本尊青面金剛立像。脇立二童子。夜叉四体。申三匹」。「読経所 本尊 普賢菩薩。十羅刹女十体。」。「護摩堂 本尊 不動。脇立二体。愛染明王。五大尊。十二天絵像十二体。大般若本尊絵像。不動絵像」。「明神影向所」(御本宮の祭神・賀茂建角身命の遙拝所)。「舎利塔」。堂塔の前庭には竜ガ池のはか、『百練抄』太治三年(1128)、鴨神宮寺東塔(現在、下鴨中学校。旧東林町)が天承元年(1131)に西塔(現在、出雲路橋東詰め宮崎町。旧塔の壇町)が建立されたとあります。嘉保二年(1095)ごろ原本が成立した『鴨社古図』に全容を見ることが出来ます。

社僧の社家 社僧侶は、松林院、本寿院、満徳院、渓広院、乗林坊、最楽坊、随了庵、山崎土佐守、山崎伊予守、山崎讃岐守と中世以来計九口が一統で『鴨神殿舎屋並びに名所旧跡』に記録されています。

朝廷のご信仰 殊に篤く。さきの『小右記』には、三十度に及ぶ御祈願、御供養、御法要などが記録されています。以来、歴代に亘ってその様子を伺うことができます。

しかしながら、天災、人災等の災難も多くその最たる被害は、応仁文明の乱による兵火によって全焼したことです。近世では、宝永五年(1708)三月八日、市中の火災により類焼(『御祖神社御事歴以下明細調記』)しました。また元治元年(1864)七月、蛤御門の変の折りには、当神社の宮侍、一乗寺・渡辺の鄕士と奈良・十津川の鄕士が御所と当神社の警固のため本堂や雑舎を宿舎としたことは特筆すべきことです。

その後の神宮寺 明治十七年五月、岡本真暉集成、山城国『愛宕郡下鴨村誌』には「御維新之際神仏混淆廃止之令二ヨッテ本尊並仏具仏器悉皆延暦寺塔中渓広院江引渡ノ後廃寺トナル。」と記録されています。