宮司の挨拶

明治二年(1869)の葵祭

H30-05-07 / 232話

 今年は、明治維新一五〇年の歳です。維新動乱期の葵祭は、どのようにお祭が催されたのか、今となっては興味のあることです。

 一五〇〇年も続いているお祭ですから、時代によって、さまざまな変遷がありました。奈良時代の末、奈良の都から長岡京へ遷都のころ、平安時代のおわり頃から鎌倉時代のはじめ承久の乱のころそうして、応仁・文明の乱が始まった頃と、洛中の辻々で昼ひなか戦闘が起こり、危なくて行列が通ることも出来ず夜中に御所を行列が出て下鴨神社へ到着し、深夜に「社頭の儀」と言うお祭がおこなわれました。しかも、乱は、永年、続きついに二〇〇年ちかく、行列は途絶えてしまいました。

 その間も「社頭の儀」と言うお祭は、滞ることなく続けられました。葵祭は、代々の天皇陛下が国民の安寧と平安、五穀豊穣、あらゆる産業の繁栄を祈って、近衛使という勅使が鴨の神さまに宣命(せんみょう・のりとうのように神さまに申し上げる詞)を奏上され、御供えをし、お祭をされることです。

その御供えを携えて御所からおいでになる行列が葵祭のように言われてきました。戦乱の世の中や大きな変動の時代、行列は度々中絶しましたが、宮中から、勅使さんが御供えを携え両賀茂神社へ向かわれ「社頭の儀」のお祭は耐えることなく続けられてきました。

 応仁・文明の乱により行列が中絶した後、江戸時代の中頃の東山天皇のおぼし召しによって、元禄七年(1694)四月十八日(旧暦のころは、四月の中の酉の日がお祭でした)ようやく、御再興になりました。   

二百年間も途絶えていると、装束のこと、祭具のことなど、ことに儀礼について忘れられている点が多かったようです。当時の史料をみると、御再興には、大変なようすがうかがえます。野々宮定基という有職家のお公家さんが中心に御再興になり、御再興後、初の近衛使には、ご自身がお勤めになった記録を伝えています。

 明治二年の葵祭は、直前の明治二年二月二十九日に明治天皇は、東行行幸のため、両賀茂神社へ無事行幸の御祈願に親拝されました。よって、お祭の行列は、中絶することになりました。「社頭の儀」も、それぞれの賀茂神社の宮司が勤めています。