宮司の挨拶

河崎社の御社殿の再興

H29-01-16 / 206話

先の本欄で、賀茂斎院歴代斎王神霊社の御再興のことを書きました。第三十四回・式年遷宮事業の継続事業について引き続き記します。

新年早々、取り組みたい事業です。どの順序で進めるかは、学術顧問の先生をはじめ関係者のご意見のもとに進めたいと存じます。どうぞ、本年も宜しくご清援の程、お願い申し上げます。

 再興するお社の二番目は、河崎社です。これは、「こうさきのやしろ」と、読みます。時代によって、神先(かんざき)、とも、神早(かんさき)、神崎(かんざき)と書かれていました。お社の元の地は、現在の京都大学の辺りから知恩寺、田中神社の地域に所在した鴨氏の村に祀られていた神社です。その旧地は、知恩寺境内に今もお祀りしていただいている鴨神社です。

 この地は、もともと古代から賀茂御祖神社の領有区域として、承和十一年(八四四)十二月二十日付、太政官符により制定されていました。鴨社神領・粟田郷(あわたごう)のうちでした。粟田郷は、その後、元慶四年(八八〇)に上下の粟田郷に分けられたことが『三代実録』にみえます。そのうちの下粟田郷になります。この郷は、鴨長明で知られた鴨氏の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)系の氏族が古代から領有し、始祖を鴨神社として祀り集落を構えていたところでした。時代は下りますが、室町時代の公卿の日記『親長卿記』の文明六年(一四七四)八月一日のくだりに、先年の応仁・文明の乱によって略奪、放火にあった集落を守るために田中の構(かまえ)と呼ばれた防護壁を築いたこと。その田中の構が『実隆公記』の文亀三年(一五〇三)五月二十四日のくだりに、またまた乱により集落が襲われ兵火にみまわれたこと。その後も享禄三年(一五三〇)十二月二十九日(『二水記』)、集落がことごとく焼き討ちにあい壊滅状態となり、間なしの天文五年(一五三六)七月二十二日(『鹿苑日録』)にこれまた乱の災害にあって構えも鴨神社も壊滅したことが記録されています。この天文法華の乱により壊滅した鴨氏の集落は、応仁・文明の乱の兵火で焼亡した糺の森の鴨社神舘御所跡へ移住しました。「田中の構」については、鴨の社家の記録でもある明治四年(一八七一)五月刊行の山城国『愛宕郡志』に「同年十月、たてはらと川崎を合併し田中村と称す。」とありまように「河崎」が里の名称となっていたことが知れます。

 天文法華の乱により焼亡した河崎社は、鴨氏が鴨社神舘御所跡へ移住した地に賀茂建角身命系の氏人が集合して新たに里を形成したのです。天明五年(一七八五)に河崎の地の鴨神社が旧地の名称を付して河崎社として遷御されました。

ところが、大正十年(一九二一)九月、都市計画法によって、河崎社境内の大半が下鴨本通となることにより、鴨社神宮寺境内の賀茂斎院歴代斎王神霊社へ合祀されました。それもつかの間、昭和二十四年・第三十二回式年遷宮により造替予定のため社殿を撤去したものの戦後の混乱期に遭遇し建築資材などの不足により、社殿造営にまで至らず今日になりました。