鴨社神舘御所の整備



 承和十一年(八四四)十一月四日付、太政官符により「賀茂大神宮四至」として賀茂御祖神社神域が制定され、山城国八ヶ郷のうち二ヶ郷を神領地と定められました。その地の収納物は、「恒例祭祀を永く勤める事、神殿雑舎、攝末社、神舘、神宮寺等の修造、臨時の臣料に充てる事」と、決められました。「神舘」とあるのが鴨社神舘御所のことです。平安時代の『小右記』『中右記』等々、数々の史料に鴨社行幸、御幸、賀茂祭、遷宮、斎院等々の記録に行在所となったことがみえます。

 建治元年(一二七五)四月二十六日、亀山上皇が御幸にさいして指図となった『鴨社神舘御所絵図』が現存します。その絵図の書き込みに「永仁四年(一二九六)八月十六日、後宇多上皇御参籠御幸にさいしても本図が指図となったことも記しています。長期にご滞在されるに相応しい殿舎の構えでありますが、鎌倉初期の藤原長兼の日記『三長記』によると、「建永元年(一二〇六)四月、神舘ノ屋根修理職二付ル。寸法遙二縮マリタリ。」と、ありますから、この時点でかなり縮小した御所となっていたことが察せられます。現存する絵図は、縮まった時代の絵図ですが、それにしても所在した場所は糺の森の西方、現在の出雲橋から葵橋までの区域が御所域でした。かなり広範囲であったことが推測できます。

ところが、文明二年(一四七〇)六月十四日、応仁文明の乱の兵火によって(『親長卿記』)、全てが焼亡しました。その後、復旧がなかなか及ばず、以降の行幸、御幸等は、神服殿。勅祭等は、禮殿が充てられていました。

 ようやく、明治二十四年(一八九一)、式年遷宮を迎えるに際して復興の計画はされたものの実際には昭和十二年の式年遷宮まで待たねばなりませんでした。それも行在所となる主要殿舎は、旧来の禮殿を移設して再現されることになりました。

行在所となる禮殿は、かつて、東御本宮の東方、御手洗の池の北方に所在しました。通常は、御祈祷、御祈願、解除(御祓のこと)など、私祭の儀礼に代用されていた御殿でした。

 賀茂御祖神社は、私幣を禁じられた神社でしたから、江戸時代初期には、御本宮から離し御手洗の池の南側、細殿御所の東北方へ移転しました。というのも、細殿御所も行幸や御幸等のさい御所棟に充てられる殿舎であったからです。明治二十七年『御事歴明細調記』には、「禮殿 西向、参籠所也。細殿東北二在」とあります。御参籠御座所とされていました。

さらに明治初年、神社制度改革にともない先の『調記』によると「明治十九年四月十九日、比良木社後二引キ移。柿葺トナル」と、場所を摂社「比良木社後」、西方へ移設しました。当初は、神舘御所に替わる殿舎とされていましたが、大正三年五月五日、第三十回式年遷宮にともない内務省の社殿整備事業の一環として、楼門外の区域を特定して御所域復旧を目指したからとされています。そのため、比良木社西方へ移動させました。ところがそれもつかの間、昭和十二年五月一日、第三十一回式年遷宮にともなう事業で、行幸行啓行在所と勅祭等の勅使、内務官、神祇官、地方官等のためかつての神舘御所を新設につき、その主要殿舎として移設されました。その節、屋根のみ瓦葺きとなりました。

この殿舎の元は第二十回・天正五年(一五八一)、式年遷宮のおり禮殿造替により撤去された旧殿であって、全体の様式は以前のまま古社殿の形態を保っており、特別保護建造物に指定し、保存されていました。

 しかし、明治四年の上知令により公文所まで上知したため、社務所にあたる建物がなく、昭和十二年、第三十一回式年遷宮により新築された神舘御所の一部を事務棟として臨時に使用していましたが、この程、平成二十七年・第三十四回式年遷宮事業により、社務所を新たに設けることができましたので、神舘御所を元の姿に戻す必要があり、特に行在所の整備を重点的におこないます。


 

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