宮司の挨拶

今年の葵祭1賀茂祭騎射神事(かものまつりのむまゆみじんじ)

R3-05-14 / 265話

 今年の葵祭の行列は、新型コロナの蔓延防止のため、中止となりました。二年続きです。それにつれ前儀、後儀も祭儀のみおこなうこととなりました。

 この欄では、葵祭の儀式の原点とも云うべき五月三日に糺の森の馬塲でおこなわれる賀茂祭騎射神事について述べておきましょう。

『続日本紀』文武天皇二年(六九八)三月のくだりに「山背国の賀茂祭の日にもろびとをあつめて騎射(むまゆみ)することをいさむ」とあります。すでにこの時代の葵祭は大勢の人々がお社に群がっていた様子を伺うことができます。宮中からお出ましになるお祭については触れられていませんが、そのお祭のなかでおこなわれる騎射神事(むまゆみじんじ)は、たいへんな賑わいで遂に禁止令が発せられるにいたりました。ところが『続日本紀』に五年後の大宝二年(七〇二)四月のくだりに「賀茂神を祭る日に、もろびとあいつどいて仗(じょう・矛のような武器のこと)をとりてむまいることをいさむ。ただし、当国の人はいさめのかぎりに在らず」、と山背国の人々や鴨の氏人の関係は除外されました。それでも和銅四年(七一一)四月、「賀茂の神祭の日、今より以降、国司毎年みずからのぞみて検(かんが)へ察(みよ)」(『類従国史』)」と。同じく『類従国史』神亀三年(七二六)三月、さらに厳しく「家人(氏人のこと)あいつどうこと、一切禁断」と、四度にわたり群参することを制限され、そのうえついには、『類従三代格』によれば、天平十年(七三八)四月二十二日付の勅(みことのり)に「賀茂の神を祭る日、人馬あいつどうこと、ことごとくみな禁断す。今より以後、意にまかせて祭をゆるす。但し、祭礼の庭で乱闘せしむるなかれ。」と発せられました。このように人々が熱狂した賀茂祭騎射神事は、長い歴史を重ねてきました。

 賀茂祭の創祀のころについて『日本書紀』、安康天皇三年(四五六年ごろ)の章に騎射の記述がみえます。また欽明天皇の御世(五四〇年代)、度々の風水害により五穀は実らず疫病が蔓延して荒ぶる神々の沈静祈願のため馬を馳せたり騎射の神事を奉納し賀茂の神のお祭をされてきました(『本朝月令』)が、昭和四十八年、第三十二回式年遷宮記念祭より鎌倉幕府奉納の流鏑馬と併せた神事として以降は、糺の森流鏑馬神事等保存会を創設し齋行に勤めています。

賀茂祭騎射神事次第

先、宮主(みやじ)、解除(げじょ)をおこなふ 忌子女(いむこのめ)、

童女(わらわめ)随従

次ぎ、神職神供を備進す

安(あんずるに)、座主(ざす)祝詞を奏す

次ぎ、騎射役舎人(むまゆみのとねり)、馬上杯を賜ふ

   忌子女、作法をおこなふ 童女、作法をおこなふ

次ぎ、騎射役舎人、御鞭を賜ふ

   騎射役舎人、拝舞(はいぶ) 伎呂利(ぎろり) 先、神前(西面) 

次 東面

次ぎ、神事 

長官 采配す

   騎射役舎人神禄(しんろく)を賜り拝舞 肩掛(かたかけ)

       神禄騎射役舎人白虎  近衛府武官

              紅梅  検非違使庁武官

              瑠璃  氏人宮元神人