宮司の挨拶

鴨社史料を読む 2

R1-08-21 / 249話

 

賀茂あるいは、鴨社といえば、葵祭、みあれ神事、式年遷宮それに、行幸式日の制、参籠御幸の制、賀茂斎院の制等々、もうけられていました。即ち、官制の賀茂御祖神社の宮中側の史料のことです。

ここで言う「史料」とは、略して、鴨社に関わる宮中の史料のことです。それぞれの儀式、儀礼に携わるお公家さんたちにとっては最も重要な政務の一環であったと思われます。

 儀式、儀礼の作法は、全て宮中の先例に則っておこなわれていました。ここでばそのうちの、賀茂祭、葵祭について、みてみましょう。

基本史料となるのは、「続日本後紀」あるいは、「延喜式」ほか、古い時代の賀茂祭を知るために貞観十五年(873)に編纂された「儀式」などは、重要な史料です。

 また、儀式、儀礼に携わった公家の私撰の儀式書、例えば、「西宮記」(さいゆうき)、源高明が914~982に著わした儀式書。藤原公任が966~1041に著わした「北山抄」(ほくざんしょう)それに。「江家次第」(ごうけしだい)、大江正房、1041~1111などが、賀茂祭にとっては、重要な儀式書といえるでしょう。そのうえ儀式に参役したときの日記として留めた記録類は、儀礼を正確に記録し後世に伝える役割をはたしています。さらに、日常政務に携わっている公家の行動を知ることもできる貴重な史料となっています。

 なによりも、宮中と鴨社の深い関係を知るうえで最も重要ではないかと思われます。

実は、今年、八月のはじめ、福岡市において、公益財団法人世界遺産賀茂御祖神社境内糺の森保存会と世界遺産下鴨神社崇敬会の九州本部設立総会が催されました。その節、会場となったホテルに隣接する神社へ参拝しました。というのも、賀茂御祖神社には、かつて日本六十余州に社領地や御厨が設けられており此の地は、「賀茂天神厨」(かものてんじんのみくりや)という地でした。「天神」と名のあるのは、古い時代、賀茂御祖神社御祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、太陽神とあがめられ、その化身を八咫烏(やたからす)と信仰されていました。いまもって、各地にお祀りされています。そのお社は、八咫烏を象徴としていますので、このお社の社殿にも八咫烏の標が掲げられていました。

社号標に「縣社警固神社」(けんしゃ・けいごじんじゃ)とありました。その由来は、先述の「儀式」に賀茂祭の日程史料として「四月中の酉(とり)。もし三の酉あれば、すなわち下酉(しものとり)をもちいる」とあり、そうして、「数日前、斎王御禊」(さいおうごけい)「中未(なかのひつじ)警固の儀」とあります。その警固の儀には、「大臣が六衛府の佐(すけ)(衛門府の次官のこと)以上を各一人、内裏、紫宸殿の庭に召して『賀茂の祭をなさむとほっするが故に、常のごとく固め衛りまつれ』」と大臣が命ずる儀礼が記されています。他にも「小右記」「本朝月例」「西宮記」「江家次第」「三代実録」「北山抄」などにもみえ詳しく知ることができます。

おそらく、明治元年以来、さまざま神社制度の改革のなかで領内に鎮座する幾つかのお社と合祀されて地域の守護神としてお祀りされ、社名となったのではないかと思われます。