宮司の挨拶

鴨社史料を読む

H31-08-06 / 248話

 賀茂御祖神社史料のうち鎌倉時代中期から桃山時代までは、抜け落ちたように空白になっています。その原因は、幾通りか考えられますが、最も大きな理由は、平安時代の君主制から鎌倉時代の武家制度への変革でしょう。その上、戦乱の世であったこと。洛中洛外に起きた激しい戦闘により多くの重要な伝統神事や文化、文物をなくしたことによります。

同時に、社会の変革です。庶民の間では、神さんも仏さんも一緒という思想信仰の時代からさらに、様々な庶民信仰の勃興により精神生活の混乱の時代であったことによるものと思われます。

今日は、そのなかの一つをご紹介しようと思います。

第二十一回・寛永度式年遷宮に関する資料です。と言うのも、式年ですから定められた年度におこなわなければならない御遷宮です。当神社の場合は「二十年一度」と、平安時代の長元九年(一〇三六)四月十三日におこなわれた正遷宮の日に「式年遷宮制定の宣旨(せんじ)(天皇の命をつたえる公文書)」が発せられました。寛永度は、それから数えて二十一回目になります。ところが、第二十回は、天正九年(一五八一)五月二十日でした。実に、四十八年後、久々におこなわれたのです。それは、先に述べたことなどが原因で遅延していました。しかもその前の第十九回もまた、永正十二年(一五一五)二月十二日におこなわれて以来、六十六年ぶりでした。その理由もまた前述によるものと思われます。それにより、同日、「式年造営連続仰出」の御教書(みぎょうしょ)(公卿の出した公式文書)が発せられました。様々、混乱の世を示しています。

第二十一回・寛永度も御遷宮事業すべてを完了するのに二十数年を要しています。次ぎの御遷宮は、ちょうど五十年後、第二十二回・延宝七年(一六七九)九月十七日におこなわれました。この時代になると、正常な社会のしくみにもどそうとする努力がみえます。前置きが長くなりましたが、今日の話題は、そのころのことです。

ことに少ない第二十一回・寛永度式年遷宮に関する資料のうち、社家の日記です。「鴨社萬之覚日記」(かものやしろのよろずのことのおぼえのきろく)という社務(しゃむ)(下鴨神社は、白鳳六年(六七七)二月四日、官営神社として制定され禰宜(ねぎ)・祝(はふり)は朝廷より補任されました。ところが、伝統の氏神祭祀を継承していくため氏神の禰宜・祝は、混同をさけるため、社務・社司と称するなど様々の面で二重構造の神社となりました。) 祐俊、の留めです。社務・祐俊は、このとき河合社の社務でした。従って、日記の内容は、ほとんどが河合社に関する記述です。

「鴨社日時之事 一正遷宮 三月弐四日ヨリ晦日迄ノ中 一正一位河合社 一河合社始木作日時四月上旬中 一河合社就添川岸今度十五間乾ェ社地改事

寛永六年三月二日 下鴨社中」

この記述は、わずか数行ですが歴史的には大きな意味をもっています。解文(げもん)の内容の控えとみてもよいのではないかと思われます。おそらく幕府から内々の達意(たつい)により鴨伝奏(かもてんそう)(鴨社について朝廷内の役所)へ上申書を差し出した内容ではないかと思われます。

要は、なぜ河合神社の所がえをしなければならなかったか、と言うことです。鴨川に沿って北西の方向へ十五間社地を移動する、とのことです。日記をすみずみまで読みましたが、このことについては、何もふれていません。ですが、他の文書などの資料をみると、河合社旧社殿地などの資料があり様々推測することはできます。

このことについては、長くなりますので次の機会にゆずります。