宮司の挨拶

糺の森の氷室を再現

H29-04-03 / 214話

 氷室開きは、毎年、氷室の節句にちなんで六月一日におこなわれていました。

旧暦の六月は、蒸し暑い夏の始まりでしたが、新暦では、梅雨の最中です。ですが、新旧替わっても同じ日におこなわれていました。

 現在は、機能の充実した冷蔵庫がありますから心配ありませんが、かつて、梅雨や夏のお祭時期には、数日前から生物の魚介類などの調理をしたお供え物の新鮮さを保つために、氷室はどうしても必要な施設でした。

 下鴨神社の場合、お供え物を調理する大炊殿(おおいどの)という社殿の近くの社叢に古代から昭和十九年ごろまで在りました。ところが、戦争が激しくなり、京都も度々空襲にあって神社としても対策を立てなければなりませんでした。その一つとして、氷室を改造し、防空壕とすることでした。重要な文書や社史を伝える歴史的資料などを避難させる防空壕が必要でした。

 その頃は、魚介類などの生鮮食料品は、入手困難で氷室を使うことが少なく、また冬の間の作業に従事する人手もなく、ほとんど機能していなかったという。ですから、改造案は、簡単に決定したようです。樹林の奥深くの地中に糺の森の湧き水を利用して冬の間に凍らせるという仕組みの珍しい氷室でした。周囲はかなり大きな岩石を組み合わせた洞になっていたという構造物であり防空壕に適していると考えられたと思われます。

たしかに、構えは立派ですが、ところが、湿気が強くコウゾの紙類の文書ですから、たちまち湿気て固まってしまい、広げることさえ出来ない有様という。桐箱にいれておいても何の効果もなく大半の文書類に被害が及びました。

 終戦直後、ただちに、氷室の防空壕から救い出し手当をしたようですが、ほとんどの文書類は、見る影もない状態となっています。構造物は長年放置のままでしたが糺の森整備事業の一環として後年整理しました。

 氷室の設備のある神社は珍しく、そのうえ苦難の時代の神事や神餞調理の歴史と文化を伝える歴史的遺産とするために、今回、二カ所あった氷室の一カ所を再現して後世に伝えたいと思います。