宮司の挨拶

雑太社・さわたしゃー再建

H29-02-17 / 210話

 御祭神 神魂命

 元は、鴨社神舘御所内の雑太(さわた)という字地に御所の鎮祭社として祀られていた神社です。

雑太社、さわたしゃ、と読みます。しかし読みにくいこともあって、物の本には、澤田社と書かれている方が多いようです。

奈良、平安時代にこの社から分霊された佐渡國雑太郡(さわたのこうり)加茂の加茂神社の地は、養老五年(七二一)四月、雑太郡を加茂と羽茂の二郡に分けたと、『和名類聚抄』にあります。郷名も岡、石田、与知、髙屋、八多、竹田、小野、雑田(さわた)とあります。いずれも元の鎮座地の字名や社名が用いられています。加茂神社も國府の近くに祀られていました。その他にも例があります。伊豆國賀茂郡仁科村澤田をはじめこのような例が各地にみられます。

御祭神については、氏人の意のまま変遷した時期がありました。『御祖神社御事歴以下明細調記』には、「太田命」と記していますが、鴨社神舘御所内の雑太に鎮祭社として祀られていた頃は、太田命の祖先にあたる神、神魂命、賀茂建角身命を祀り、応仁・文明の乱の兵火により鴨社神舘御所が焼亡したおり、鴨社神宮寺域へ御動座になり、同系譜の鴨祝部がこの社を奉齋しましたので祖神の太田命を祀っていたと伝えています。

ところが、宝永五年(一七〇八)三月八日、鴨社神宮寺が延焼のおり類焼して河合神社へ御動座になりました。第二十三回・正徳元年(一七一一)九月三日、式年遷宮の一環事業として、先の鴨社神宮寺域の日吉社と相殿となり、御再興になりました。その節に御祭神は、元の始祖神・神魂命とされました。と言うように、複雑な経緯をたどったうえに日吉社と相殿となったという社です。

先のこの欄で日吉社のことを記したときに、明治十年(一八七七)三月二十一日、同じ神殿にありながら日吉社は摂社、雑田社は末社と制定され、しかも日吉社は、末社の殿舎のままおかれました。さらに、社殿は、明治四十三年四月八日、旧法により、特別保護建造物に指定されました。

同じ年の九月十日、雑田社前の糺の森馬場にて、御祭神の御神徳・「魂」は「玉」に通じるとして、我が国において、初めて球技・ラクビの試合がおこなわれました。それが契機となって日本ラクビ界の歴史が始まり、今日まで数々の名勝負が展開されてきました。昭和四十四年十月五日、その歴史を後世に伝えるべく初試合をおこなった旧制第三高等学校の関係者が「第一蹴の地」の聖地として記念碑を建立しました。

相殿の社殿は、昭和三十四年・第三十二回式年遷宮事業により造替のため昭和二十年末に解体されましたが、遷宮事業が遅延のため未完了のまま今日に至っています。よって、今期御遷宮事業によりぜひ御再興しなければなりません。現在、御祭神は、三井神社末社へ移御中です。